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認定NPO法人化学兵器被害者支援
日中未来平和基金
遺棄された経緯
日中戦争以来、日本軍は中国を侵略し、中国東北部に軍隊を進めていました。そして、1925年にジュネーヴ議定書において、戦場での毒ガスの使用が禁止されていたにもかかわらず、ソ連との戦争に備えるために、毒ガスを製造し、配備していました。
瀬戸内海の大久野島には陸軍の毒ガス製造工場、神奈川県の寒川には海軍の毒ガス製造工場がありました。こうして国内で製造した毒ガス兵器を中国などに配備し、実際に戦闘で使いました。中国東北部には化学兵器部隊(チチハルにいた516部隊が代表的)が配備され、大規模な演習が繰り返されました。
そして、日本敗戦前後の時期になると、それらの大量の化学兵器は、中国の大地に埋められたり、河川に投棄されたりなどして、組織的かつ秘密裏に遺棄されました。また、日本政府はそれら兵器の場所を特定することは難しいとして、除去などの未然防止に努めようとしません。そのため、中国国内には、今なお70万発以上の大量の遺棄化学兵器が存在しているといわれています。さらに日本国内でも、化学兵器が遺棄されました。
繰り返される遺棄毒ガス事故
中国及び日本において、主なものだけでも、以下のような事故が起こっています:
1974 黒竜江省ジャムス市の松花江で浚渫作業中の労働者が被毒
1982 黒竜江省牡丹江市の道路工事現場で労働者が被毒
2002 神奈川県寒川町の建設現場で、作業員11人が被毒
2003 チチハルで住宅団地の工事現場からの毒ガスで44人被毒
2004 吉林省敦化郊外で2人の少年が遺棄毒ガス弾で被毒
2000~2003 茨城県神栖市で、被毒した住民が手足の痺れなどの体調不良を訴える
遺棄化学兵器(毒ガス)問題とは
(背景写真提供|曽根工場跡地© Naomi TOYODA)
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